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COACHの戯言Blog

COACHの戯言Blogです。

   

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高潔であれ

1945年9月27日 昭和天皇はGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーに会うために通訳一人だけを連れて、アメリカ大使館公邸を訪れました。
マッカーサー元帥は「どうせ、命乞いにくるのだろう・・・」と高をくくっていたのですが、昭和天皇は国際儀礼としての挨拶をした後に自身の進退について述べられました。
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります」

「しかしながら、罪なき8000万の国民が住むに家なく着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
マッカーサー元帥は、昭和天皇のお言葉にたいそう驚かれたそうです。
マッカーサーはこの時の感動を、『回想記』にこう記している。「私は大きい感動にゆすぶられた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士である、と思った」
当時、ソ連やアメリカ本国は「天皇を処刑すべきだ」と主張していたが、昭和天皇の態度に感動したマッカーサーは、これらの意見を退けて、自ら天皇助命の先頭に立った。

また当時、深刻な食糧不足に悩まされた日本に対してアメリカ本国に何度も掛け合い食糧物資を支援させることに成功し日本の危機を救っている。
比べても何の意味も無いのですが、以下のような高級将校達がいたんです。




富永恭次陸軍中将:
フィリピンで陸軍の航空特攻を指揮。マッカーサー軍が迫ってくると、司令部の許可なしに側近と芸者とウィスキー瓶のみを載せて台湾に逃亡。天寿を全うする。

菅原道大陸軍中将:
陸軍特攻の中心だった第六航空軍の司令官。10代の少年を特攻隊を次々を送り出し、エンジン不調などで戻ってくると「卑怯者!俺も後で行く!」と殴り倒した。
敗戦で部下が自決をすすめたが「死ぬのだけが責任を取る事ではない」と逃げ回り、96歳で天寿を全うした。

倉澤清忠陸軍少佐:
菅原道大の部下で第六航空軍の参謀。特攻隊を次々と送り出し、機体不良で戻ってきた搭乗員を監禁して毎日毎日「死ねないようないくじなしは特攻隊の面汚しだ。国賊だ!」と罵り殴りまくった。悔しさのあまり自殺したものもいる。
戦後は元特攻隊員の復讐を恐れてピストルを持ち歩き、寝る時は枕元に日本刀を置いて寝た。天寿を全うする。

玉井浅一海軍大佐:
フィリピンで特攻隊員を次々と送り出す。
機体不良で戻ってきた特攻隊員たちが本土へ戻る事になると「待て!お前は特攻隊で死んでもらう事になっている」と輸送機から引きずりおろし、自分が乗り込んで本土へ帰っていった。
戦後は僧侶になり、天寿を全うした。

黒島亀人海軍大佐:
残酷な人間魚雷「回天」を立案。「必ず脱出装置を付けます」と嘘をついて認可を得た。
戦後は会社社長として何不自由ない暮らしを送る。宇垣纒の戦争体験手記を遺族から借り出し、自身に都合の悪い部分を破棄した。天寿を全うする。

太田正一海軍大尉:
米軍コードネーム"BAKA"こと人間爆弾「桜花」の発案者。
「自分が乗るから開発させてくれ」と上層部に懇願して開発させたが、自身は「適性なし」として搭乗しなかった。
敗戦直後に逃亡し、名前と戸籍を変えて暮らす。天寿を全うした。
インパール作戦で2万人以上の戦死者を出させた愚将牟田口 廉也中将も戦後生きながらえ、その後には「自分は悪くない」と公言していました。

そのあまりの差に愕然とします。

戦争を牽引したであろう将官がこれでは全く持って恥ずかしい限り・・・
責めてみたところで何の意味もありませんが、せめて「高潔であれ!」と言いたいものです。

わたしは誰?

ニックネーム:
COACH
性別:
男性
自己紹介:
星空と風とMelodyと・・・
”唄唄い”COACHの戯言Blogです。

涙色の街

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こげなこと書きました!

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